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東京地方裁判所 昭和42年(ワ)3889号 判決 1969年5月21日

原告 植島芳子

右訴訟代理人弁護士 揚野一夫

同 遠藤義一

被告 杉本ふ

右訴訟代理人弁護士 安原正之

同 中村弘

同 石渡光一

主文

一、被告は原告に対し、金四五万一五七五円およびこれに対する昭和四二年五月三日から支払いずみにいたるまで年五分の割合による金員の支払をせよ。

二、原告のその余の請求を棄却する。

三、訴訟費用は五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

四、この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

(原告)

「被告は原告に対し金五九六、五七五円およびこれに対する昭和四二年五月三日から支払いずみに至るまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言

(被告)

「原告の請求を棄却する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

≪以下事実省略≫

理由

一、はじめに

原告が昭和四一年二月七日原告主張の建物の階下の店舗部分約六坪(以下本件店舗という)を原告主張の約定で(ただし、原告主張の権利金が礼金かどうかについては争いがある)賃借し、同日原告が敷金五〇万円と原告が権利金と主張する五〇万円を支払ったこと、また、その日時はともかくとして、右賃貸借契約が昭和四一年八月中に終了し、原告が同月二〇日に被告に対し本件店舗を明渡したことは当事者間に争いがない。

二、敷金について

そこで敷金一五万円の請求について判断する。

(一)  敷金五〇万円のうち原告が被告から三五万円の返還をうけたこと、残金一五万円については、右賃貸借終了の後原被告間で、原告の負担すべき本件店舗の修復費用を一応一五万円と見積り、これと敷金の残金一五万円とを差引精算するが、一定の条件のもとに(この条件の内容につき争いがある)、敷金のうちの右一五万円を被告から原告に返還する旨の合意が成立したこと、その後被告が同年のうちに本件店舗を訴外西村トミ子に賃貸し、同人がそこで喫茶店を開業したことはいずれも当事者間に争いがない。

(二)  よって、まず一五万円を返還する合意の内容、その他の点につき証拠によって調べたうえ、被告の抗弁(一)につきその当否を検討する。

≪証拠省略≫ならびに前記争のない事実を総合すると、次の事実が認められる。

本件店舗は本来貸事務所として作られたのであるが、原告は昭和四一年二月七日被告から喫茶店経営の目的で賃借し、約五〇万円位の費用を投じて、これを喫茶店に改装し、喫茶店の営業を始めたこと。しかし、その営業成績が思わしくなかったので賃貸借契約成立の後わずか五ヶ月位経過した昭和四一年七月上旬頃、原告は被告に解約の申入れをなし、被告はこれに応じて解除の条件等を原告と協議し、同八月八日に解除の条件の大綱をきめ同年八月二〇日敷金の精算を終えて同日原被告間に合意解除が成立し、原告は同日これを明渡したこと、さらに、その頃原被告間において、本件店舗を原状に回復する費用は原告の負担とし、その費用額を十五万円と見積り、前記敷金の残金一五万円と相殺する。ただし、将来被告において、原告が明渡した当時の状態のままで、なんら修復費用を支出することなく、これを同種の営業を営もうとする者に賃貸できた場合には、右残金一五万円は原告に返還する旨の合意が成立したこと、そして、被告は同年一一月頃本件店舗で喫茶店の営業を始めたいと希望した訴外西村トミ子に賃料三万五〇〇〇円、敷金三五万円、礼金三五万円で(賃貸期間の点は証拠上はわからない)、賃貸したこと、右西村は約一〇〇万円位の費用を投じて室内の様式設備等を改装して喫茶店を初めたこと、被告は右西村に賃貸するに当り、自らはなんらの修復をなさず、したがってこれがためになんらの支出をしなかったこと。

以上のように認定される。右認定事実によれば、特段のことがない限り、被告は敷金の残額一五万円を原告に返還すべきである。

(三)(1)  しかるところ、被告は明渡後原告が店内設備品の一部を持出したことを難詰する。なるほど、前掲証拠によれば、原告が本件店舗内に自ら設置したファンと鏡とを持出したことが認められる(照明器具の点は証拠不十分)。右持出しは明渡しの後であったので、原告としては被告と十分話し合ったうえでこれをなすべきものであったと考えられ、被告がこれを非難するのも一応はもっともである。しかし、一五万円返還に関する前記合意の要点は、被告において修復等の出費をせずに第三者に賃貸できた場合にはということにあるのであるから、原告の右持出しの行為を捉えて被告が返還を拒むのは理由がなく、まして右持出し行為によって、原告は一五万円の返還請求権を放棄したと主張するのは筋が通らないし、また、これを認めるに足る証拠もない。なお、右認定の事実関係のもとに、原告が一五万円の返還請求をすることは、信義則にも反しない。

(2)  また、被告は、自ら出費こそしないが訴外西村が修復費用を負担することとなるから、被告としては本来五〇万円の礼金をとるべきところ三五万円に値引きしたから、結局差額の一五万円については、被告自ら支出したと同じである、と主張する。なるほど、西村トミ子が本件店舗を改装するため一〇〇万円位の費用を投じたことは前認定のとおりである。しかし、およそ喫茶店等の経営を初める者は、それぞれ自己の好みによる方針があり、その方針に従って改装等を実施するのが通例であり、おそらく右西村もその好みや抱負によって改装を試みたものと考えられ、右一〇〇万円のなかには、前認定にかかるいわゆる修復工事のための費用が含まれていたかどうかは疑問で、この点に関しては確たる証拠はない。のみならず、被告と西村間の契約において修復等の費用一五万円は被告が負担することになっているゆえ、礼金は本来五〇万円だが、これを三五万円に値引きするという折衝があったとする点については、証人杉本賢二郎(被告の夫)と同杉本浩久(被告の養子)がこれに見合うような証言をしているが、その裏付に乏しく、これをにわかに信用することはできず、他に被告が一五万円の修復費用を支出したと同視すべき事実を認めるに足る証拠はない。

よって被告のこの点に関する抗弁はすべて理由がない。

三、権利金について

(一)(1)  前認定の賃貸借契約成立の際、賃料、敷金以外の趣旨でそのほかに金五〇万円を原告が被告に支払うことを約し、右契約成立日に原告が被告にその五〇万円の支払をしたことは当事者間に争いがない。原告本人はこれを権利金として授受したと供述し、証人杉本賢二郎はこれをいわゆる礼金として授受したと証言するが、この場合、授受のとき当事者がどういう名称を用いたかは、それ程重要な問題ではない。喫茶店営業のため賃借した原告が、賃料敷金のほかに、五〇万円もの大金をお礼の意味や感謝の印として被告に贈呈することを約したものとは到底考えられないし、またそのような証拠は何もない。

それは、要するに、原告が賃借権設定をうけることに対する対価である。

そして、本件賃貸借においては、転貸・譲渡の自由が認められていないこと、原告が喫茶店経営を目的として賃借したこと、かつまた、本件店舗が、靖国神社前の大通りで都電一口坂と九段三丁目の停留所の中間に位置すること、その他前認定の各事実等を総合して考えると、右五〇万円は、法律的には、講学上いわゆる「場所的利益に対する対価」であり、その経済的実質は、賃貸人が多額の賃料を定めることをさし控えたため、その不足額を一時に取立てるための方便であり、結局賃貸借の対価である。世上権利金といわれるものには、その趣旨、目的はいろいろあるが、右場所的利益の対価の趣旨で授受される金銭も、一般には権利金の名をもって呼ばれる(以下本件権利金と呼ぶ)。

(2)  さて、契約にあたり、場所的利益の対価として権利金が支払われた建物の賃貸借が終了した場合に、賃貸人がこれを返還すべきものかどうかに関しては、その法理は十分確立していない。ただ条理上いえることは、期間の定めのある賃貸借において期間満了によって終了した場合は、返還義務はない。期間の途中において、賃貸人の一方的都合ないし、その責めに帰すべき事由によって終了した場合は、支払われた権利金のうち残存期間に対応する部分は返還すべきであろう。

問題は、本件の場合のように、期間の途中において、賃借人の解約したい旨の希望が容れられて合意解除により契約が終了し、しかも、その合意解除において、権利金の返還についての点については、なんらの取決めがなされていない場合である。

この場合、いわゆる合意解除は、賃借人の解約申入に対し、賃貸人が承諾を与えたことにほかならないから、賃借人は借家権を放棄したのであり、したがって賃貸人にはなんらの返還義務がないとするのも一つの考え方である。

しかし、これによると、この種権利金の額は期間の長短によって定められるのを通常とするから(本件の場合も前認定の事実と弁論の全趣旨からそのように考えられる)、賃貸人は予想外の利得をし、賃借人もこれに相応する損失をうけることとなり、公平を旨とする私法の精神にもとることとなる。そこで、原則的には、不当利得の法理に立脚しつつ、賃借人の一方的都合によって終了したという事実によって、これを適正に調整按配するという態度が正しいものと思う。

そして、その調整按配の仕方については、各事案について一律でないことは当然であって、それは今後の判例の積み重ねによって、その適正化と法の安定性を期待するほかはない。

当裁判所としては、この種、権利金は期間の長短がその額に影響するものであり、一応約定の全期間に対する対価であるものと考えられるので、期間の途中賃借人の一方的都合によって、契約が終了した場合には、特段の事情のないかぎり、支払われた権利金のうち、残存期間に対応する部分の金額(くわしくいえば、権利金の額に、残存期間の約定全期間に対する比率を乗じた金額)から一定額を控除した額につき返還義務があるものとし、その一定額については、民法六一八条六一七条一項二号の規定の趣旨を参酌して、左記の合計額によるのが双方に公平な考え方であると思う。

(イ) 賃料の三ヶ月分に相当する額

(ロ) 三ヶ月の約定期間に対する比率を権利金の額に乗じた額(権利金の三ヶ月分相当額)

(3)  そこで、これを本件にあてはめると、約定期間は五年間、賃料月額は四万円、権利金は五〇万円、賃貸借成立日から終了日までは計算上一九五日であるから権利金の残存期間に対応する額は原告主張のとおり、四四万六、五七五円となる。また、控除項目については、賃料三ヶ月分は一二万円権利金の三ヶ月分相当額は計算上二万五〇〇〇円であるので、控除額は一四万五〇〇〇円となる。差引計算すると、三〇万一五七五円となる。

したがって、本件においては、特段の事情のないかぎり被告は原告に右三〇万一五七五円を返還する義務がある。

(二)  次に権利金についての被告の抗弁の当否を考える。

(1)  被告は右権利金授受にあたり、事情のいかんを問わず返還しない旨の暗黙の特約があったと主張するが、この点の証拠は見当らない。

(2)  被告は、礼金は返還しないのが慣習であり、原被告は右慣習に従って授受したと主張するが、本件の五〇万円は、礼金と呼ばれようが、なんと呼ばれようが、前示のとおり、場所的利益の対価であることは、前に説明したとおりである。また、一般に、権利金を返還しようとしない賃貸人が多く、したがって、法的手段に訴えてまで返還を請求しない賃借人の多いことは事実である。それは、権利意識に欠け、争いごとを好まない、われわれ日本人の一般的性格に由来するのであって、このような事情は、権利金返還請求の妨げとはならないことは当然であるし、被告主張の慣習も証拠上認めることができない。

(3)  抗弁(3)については、なるほど前掲各証拠によると、原告が解約を申出た昭和四一年七月上旬以来明渡に至る同年八月二〇日に至る間に、原被告間に権利金の返還の点について、なんらの話合いがなされなかったこと、合意解除の覚書においても、他のことにはかなり詳細にきめてあるが、権利金の返還についてはなんら触れていないことはまさに被告主張のとおりである。しかし、ことがらが権利金に関するものであり、法曹の間においてすら、その返還請求権の有無が十分検討されていない実情に徴するときは、右の一事をもって、原告が権利金返還請求を放棄したもの、ないしは、これを請求しない合意ができたものと考えることは、人情にうとく、また、やや粗雑な考え方というそしりを免れない。そして、他に右放棄または右合意を認めるに足る証拠はないから、この点の主張も採用できない。

(4)  被告の抗弁(4)の点は、一応考えうる見解ではあるが、これに対する当裁判所の意見は前述のとおりで、これまた採用できない。

四、むすび

以上の説示を要約すると、被告は原告に対し敷金の一部一五万円と権利金の一部三〇万一五七五円との合計額四五万一五七五円およびこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和四二年五月三日から支払いずみに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある、ということになる。したがって、原告の本訴請求のうち、右限度の請求は理由があるが、これを超える部分は失当として棄却する。よって、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 伊藤秀郎)

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